今いる場所からは
見えない
世界がある

三線アーティスト

かじく あつしさん(37)

竹富町鳩間島出身

―現在のお仕事について
三線アーティストとして、全国のステージやイベントに出演する一方、date fm(FM仙台)で『沖縄Colors~ゆんたくタイム~』、かわさきFM『琉球リミテッド~かりゆし超特急~』のメインパーソナリティーとして活動しています。また、日本最南端の町、竹富町の観光大使として、全国各地のイベントやメディアを通して沖縄文化の魅力を発信するPR活動をおこなっています。

島民は50人。“大きな寮”で過ごした少年時代

―沖縄ではどんな日々を送っていましたか?
周囲4km、人口約50人という鳩間島で海に抱かれて育ちました。家の前がすぐ海で、小さい頃は朝から晩まで泳いで真っ黒になっていました。島民は基本、皆知り合い。少し大きな寮という感覚ですよ(笑)。
三線に初めて触ったのは小6の時でしょうか。学芸会での発表の為に必要にかられてでしたが、父親が民謡歌手をしていることもあり、教えてもらった記憶もあります。最初は面白いとは思いませんでしたが、練習をするうちに、弾ける曲が増えていったのは嬉しかったですね。中学になるとアコースティックギターを弾くようになり、高校ではバンドを組みました。その頃から自分で曲を作ることに興味がありました。
当時はバンドブーム全盛期。2人組のゆずが路上からメジャーデビューしたこともあり、夢がありましたね。学校の文化祭でも出演する為にはオーディションがあるぐらい、皆レベルが高かった。これも八重山ならではでしょうか。

体育教師を目指して上京

―上京のきっかけや、東京での生活について教えてください
漠然と音楽をやりたいという目標はありましたが、当時はとりあえず4年生大学は出ておいた方が良いという風潮もあり、進学を決めました。商学部や経済学部はあまり面白そうな感じがしなかったので、元々運動神経も良かったので、日本体育大学体育学科の学校教育コースに、教員資格を取る前提で上京しました。
周りには北島康介をはじめ、ラグビーやハンドボール日本代表のトップアスリートばかり。その熱量の違いに、俺、場違いな所にきたかな?と一瞬、ひるみましたが、全般的に体育実技の成績は良かった方ですね。それも基礎体力を育んでくれた島のお陰だと思っています。
東京での生活は、元々高校の時に石垣島で一人暮らしをしていたので、場所が変わったぐらいにしか感じませんでした。物や情報がすぐ手に入る事は便利でしたが、人のいない島出身なので、都心のひとごみは今でも慣れませんね。友人と集まるのは学校から1本で行ける渋谷がほとんど。周りに沖縄出身の人間も多かったので、ホームシックにもなりませんでした。

社会人をしながらの音楽活動

―現在のキャリアに至ったわけは?
大学3年では島の中学に教育実習に行きました。でもそこで重要な事に気がついてしまったんです…。「あー俺、人に物を教えるのは得意ではないな」と。(笑)わずか3、4人の生徒を教えるのに大変なのに、これが何十人もいたらどうなるかと。教員には向いていない事を痛感しました。
就職活動はしていなかったので、卒業後は在学中からアルバイトをしていた教育系の会社にそのまま社員として雇ってもらいました。社会人としてのイロハを学べたことは良かった気がします。生活の糧を得た上で、音楽活動もこの頃に本格化させました。より時間を得るために、シフト勤務の出来る小売りの会社に移ってからは、昼間は会社で働き、夜は沖縄居酒屋や、イベントなどで演奏活動をする日々でしたね。
民謡歌手の父からは「沖縄の音楽だけでは食えないぞ」と言われていました。確かに沖縄で活動する三線歌手の人達は2足のわらじで活動する人が多く現状は分かっていました。自分も、兼業で活動する事にはなんら抵抗も無かったですし、最低限の収入を確保した上で動けることが良かったですね。シフト業で柔軟な働き方ができた会社にも感謝しています。
その後、10年ほど会社員をしながら音楽活動をおこなっていくうちに、イベント企画や準備、物販やアーティストのブッキングなど、ライブ活動に付随するお仕事を頂くようになりました。最初は個人事業主として請けていたのですが、取引相手との便宜もあって、2017年に法人化し、「恋の島ファクトリー」と名づけました。島全体が大きな寮みたいなので、島に赴任した若い先生同士がカップルになったり、結婚したり。島に遊びに来て、宿で知り合った男女が結婚するエピソードから、いつしか「恋の島鳩間島」と呼ばれるようになりました。BEGINさんの歌にもなっています。銀行で社名を呼ばれるときはいささか恥ずかしいですが(笑)
東北との接点は、震災から3年が経とうとしていた2014年に、FM仙台の関係者と知り合って、南国沖縄の風を届けるような番組にしようという事になり、10月から放送が始まりました。津波の被害を受けた南三陸町のポストが西表島に流れ着いたということもあり、何か不思議な縁を感じています。以降は仙台の企業にイベントに呼んだ頂く機会も増え、今では現地での友達も多く、自分にとっては大事な街の1つになっています。

自分の居場所を作れるか

―あなたにとって東京はどんな場所ですか?
一言で言えば、多国籍の街でしょうか。東北や関西などはその土地で生まれ育った人が多く、その土地の気質やアイデンティティーなどが形成されやすいですが、東京は全国から色んな人達が集まってくる分、そういった“色”みたいなものが少ない。その分、顔のない街とも言えますよね。互いが干渉しない、一定の距離感みたいなものがある気がします。
地方の濃いコミュニティーで暮らしてきた人間からすれば、冷たくも感じますが、逆にその距離感が良いと思う人もいるでしょうね。何かをするにもしがらみに縛られないのは、都会のいい部分かもしれません。いずれにせよ、自分の居場所を作るまでは大変ですし、競争相手も多いところですが、一旦そういったものをクリアしてしまえば、東京でしか出来ない経験ができると思います。

何もないけど、全てがある島

―今後の目標について教えてください
東京とは対極的な鳩間島ですが、時代が無いモノに価値を見出せるようになってきたと思います。世界でも情報や物で溢れる都会から脱出して、“デジタルデトックス”を求める人が増えていると聞きます。僕も東京から島に帰った時は裸足で海に入ったりして、溜まったノイズや負のエネルギーを解放するようにしています。目の前にこんなに美しい海があったのかと島を離れてみて再認識しました。
今後はそういった鳩間島の立地や環境を利用して、企業の福利厚生の一環としてリフレッシュプログラムみたいなものを出来たらいいですね。その中で音楽祭みたいなイベントを組み込めば、島の活性化にもつながる。人がAIの時代を幸せに生きるには人間であるということを体感できる自然環境はますます貴重になるでしょうし、すべてが自然のまま残されている小さな島だからこそできる試みがあると信じています。

遠回りしたことが役に立つ

―最後に沖縄の若者達にメッセージをお願いします
今の場所からは見えない世界があります。僕も音楽だけでなく、体育教師への道や社会人の経験を積んだからこそ、音楽に反映できるものを手にすることができました。どうか今しか出来ない事に全力で取り組んでもらいたいです。やらなかった後悔は皆さんにはして欲しくない。大変な事は人それぞれありますが、それは今だけの話で、1年後にはきっと笑い話になっています。遠回りしたなと思うことが、後に役に立っている事もあります。物事の視点を変えてみることで、考えは大きく変わるはずです。

加治工敦(かじく・あつし)

1982年竹富町鳩間島生まれ。
沖縄県立八重山高校、日本体育大学体育学科学校教育コース卒業。
三線アーティストとして数々のステージやイベントに出演する一方、date fm(FM仙台)で『沖縄Colors~ゆんたくタイム~』、かわさきFM『琉球リミテッド~かりゆし超特急』のメインパーソナリティーとして沖縄の魅力を発信する番組を持つなど、全国各地のイベントやメディアを通し、沖縄文化や沖縄観光PRを行う。またプロ野球 セ・パ交流戦 楽天 対 巨人 の国歌斉唱をつとめなどマルチタレントして活躍中。
地元鳩間島で毎年5月に開催している鳩間島音楽祭を父である加治工勇と有志のメンバーで1998年に立ち上げ、当初50人スタートから2000人を集めるイベントに進化成長させる。美ら島フェスティバル実行委員、鶴見ウチナー祭実行委員

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