そう語るのは、酵素ジュースのキッチンカー「パニパニ」を運営されている根間はるかさん。
スポーツに打ち込んだ学生時代、販売員としてキャリアを積んだ会社員時代、そして酵素ジュースの魅力に気づき「世界に1つだけのドリンク」を目指し独立にいたるまで。
そんな経験から得た東京で生きていくコツ、次世代へのメッセージを教えていただきました。
スポーツに打ち込んだ学生時代
―沖縄ではどんな日々を過ごしていましたか?
実家が祖父母の代から農家や酪農をしていて幼い頃からサトウキビ畑の収穫を良く手伝っていました。
学校生活ではあまり目立つタイプではありませんでしたがスポーツが得意で中学、高校と陸上やバスケットに熱中していて、中学時代にはバスケ部で主将、走り高跳びで宮古島1位になったこともあります。
スポーツ推薦で入学した宮古高校でも部活に打ち込んでいましたが、うまくいかずたくさん苦い経験をしました。
卒業後は内地の大学への進学を考えていました。ちょうど姉が大阪で暮らしていたこともあり生活費の面でも大阪一択。また母方の兄弟がアメリカにいる事も影響して将来はアメリカでの生活を経て英語の先生になりたいという中学からの夢もあったので、大学では英米文学を専攻することに決めました。
初めての内地生活でしたが姉がいたので安心でしたね。高校卒業後は島を出ると決めていましたし私自身も那覇より少し遠い所に行くぐらいの感覚だったかもしれません。
家電量販店での実演販売が契機に
―大学卒業後の進路について
大学では中学高校の教員免許の取得が目標の1つでしたが、卒業してすぐ教員になるよりも一度、社会を経験してからでも遅くはないと就職の道を選びました。
元々興味のあった家電と接客業を経験できる大手家電量販店に就職することが出来ました。配属になったのは調理家電。そこでジューサーの実演販売担当になりました。
でもいきなり言われてもメーカーの違いはもとより操作方法や機能すら分からない手探り状態ですよね。中途半端な知識でお客様にお売りする訳にはいきませんから、休みの日には自分で別のメーカーの製品を購入して勉強することにしました。
実際に自分で使うことでお客様の目線で説明でき、ここが便利とお伝え出来るようになったことは良かったです。
そうしてある程度お客様に説明できるようになると、機能だけでなくて栄養面での知識が欲しくなり、メーカーの方に色々質問して勉強を重ねたりしては本屋さんに行きジュース本を愛読しました。
そうすることでお客様との信用関係が出来上がり、一度ご来店された方が私の名刺を持って再訪された時は本当に嬉しかったですね。
視野が広がったタイでの海外生活
―その後に思い切った決断をされたそうですね
20代のうちに海外で生活をしてみたい思いが強くなって2年働いて退社を決めました。
うちは4人姉弟の年齢が近く大学の進学費用が重なっていたので、少しでも両親の負担を減らそうと社会人で独身の私がボーナスを弟の学費に充てていました。
その弟も卒業の目途が立ち自分の貯金もあまりなかったのですが、このタイミングでわがまま言わせてもらおうと。たまたま海外転職サイトを調べていたら、タイのバンコクが目に止まりました。
日本からも近くて親日国。思い立ったらすぐに行動するタイプなのですぐに面接を申し込んで24歳で航空会社の予約デスクのアウトソーシングの仕事に就くことが出来ました。
―タイでの生活はいかがでしたか?
楽しい!の一言でしたね。アジア各国から色んな人達が集まる多国籍な街という印象で、仕事が終わった後に同僚たちと屋台でご飯を食べることが楽しみの1つでした。
初めての海外生活ということもありましたが、言葉も文化も異なる人達が暮らしている街はどこかみんな肩の力が抜けていて色んな価値観が許されるなと感じました。
日本にいた頃は「こうするべき!」という概念が強すぎて考えすぎていたのでしょうね。周囲の目を気にしないで生活できたのは本当に良い経験になりました。
―帰国を決めた理由を教えてください。
一番は金銭的な理由でしょうか。1年半に渡るタイ生活は楽しかったですけど、ずっと続ける訳にはいかない。そして何より自分の人生をかけられるキャリアを築きたかったので一度気持ちをリセットする意味も込めて宮古島に帰りました。
次は東京に出ようと決めていたので上京するための資金を貯めるべく、自衛隊施設の食堂でスタッフとして働きました。担当はポテトサラダ(笑)。最高800人分作りました。日々芋と格闘していましたが、結構楽しかったですよ!
―東京で見つけたものは何だったのでしょうか?
食堂で1年間働いて貯めた50万円を手元に東京に出てきたものはいいものの、仕事も住居も決まっていませんでした。
知り合いもいないのに地元の職場の方からは「何を考えてるんだ」と言われましたけど、親は私の性格を知っているので特に止めませんでした。
でもなんとかなるもので、すぐに神奈川県の鶴見という所でシェアハウスを見つけて入居しました。家賃は光熱費込の5万円。外国の方も滞在していてみんな明るくて良い雰囲気でした。
そこでクルーズ船のスタッフやジューススタンド、酵素風呂など面白そうだなと思った場所でアルバイトをしていました。でもまだこれ!という自分の核となるキャリアは見つけられていませんでした。
酵素ジュースの魅力に気付いて
―今のキャリアにたどり着いた理由を教えてください。
社会人1年目の家電量販店で働いていた時は1日12時間働く日も珍しくありませんでした。自分が楽しめていたので特に苦痛には感じていませんでしたが、やはり休日は疲れて寝ている事も多かったです。
そんな時に健康に良さそうという理由で酵素ジュースを飲むようになってすごく体調が良くなったんですね。その後はタイに行っても目が行くのがジューススタンドだったり、帰国後のアルバイト先も酵素風呂だったり。
潜在意識にも興味があったのだと思います。自分は会社員には向いていないし縛られるのも苦手。ならばこれからは健康や食など人の健康に関わる仕事が良いと思い、27歳の時に思い立って酵素ジュースを主体とした事業を立ち上げて独立を決めました。
キッチンカーも購入
―具体的にどのような行動をとりましたか?
まずは勉強するために以前から興味があり見つけていた一般社団法人日本酵素マイスター協会が実施するカリキュラムに参加して酵素ジュース作りを習いました。
協会では酵素についての学び以外にも自分で教室ができるということに魅力を感じました。ただ自分が作って満足だけではなく伝えることをお仕事にできるのは良いなと思いました。
初めての試みでしたが協会から手厚くサポートもあり、分からないことにも相談に乗ってくれてすごく助かっているので安心して始められました。
事業化にあたっては自宅を酵素ジュース作りの教室として利用するだけでなく、手軽に多くの人に味わって欲しいという思いから銀行から融資を受けてキッチンカーを購入しました。お店を構えるよりずっとコストも低く、ロケーションに左右されないのも魅力でした。
屋号の「パ二パニ」は宮古島の方言で「元気になる」という意味です。
世界に1つだけのドリンクを作りたい
―事業を初めて苦労されたことはありますか?また何をモチベーションにしていますか?
一番はキッチンカーでは出店場所探しですね。こちらから営業をかけてもジュースだけのメニューだとニーズが限られるのでなかなか採用してもらえない。
例え出店できても売り上げがゼロの日もあり、コロナ禍も重なってもう車を手放して宮古島に帰ろうかと真剣に悩んだこともありました。
でもイベントへの出店を通して出会ったお客様がジュース作り教室に参加して下さったり、「うちの子供が酵素ジュースを気に入って家でも『ぱにぱに』言ってます!」と嬉しい言葉を頂いたり、多くの方が応援してくれていることを知ってとても励みになりました。不安は挑戦している証なのだと前向きに切り替えることができました。
今から思えば、“リトル沖縄”と言われている鶴見に知らずに出店したことにご縁を感じています。沖縄物産センターさん、ぷからす家さんなどの沖縄繋がりで出店場所やイベントに声をかけて頂き、宣伝もして頂いて本当に感謝しています。今は沢山の人に出逢えるこの仕事が、とても楽しいです!
これからも安心で安全な手作りにこだわって人が健康で優しい気持ちになれるジュースを作り続けていきたいです。
―最後に読者にメッセージをお願いします。
自分がやりたい事が見えているなら納得いくまでやってください。やるべきことをやれば自ずと道は見えてくるはずです。
目的がどの場所で実現できるかは人それぞれですが、私の場合は東京にありました。最初の頃は自分の力だけでなんとかすると張り切り過ぎてうまくいかずに途方に暮れることもありましたが、人を頼るようになって視界が一気に開けました。
東京は怖いイメージがありますが、人がつながるスピードは地方の比較になりません。優しい人も多いです。ただそれは一生懸命にやっている人だけに言えることで、自分から動かなければ誰も助けてくれません。
私が大切にしている「ナンクルナイサー精神」も「逆境でも何とかする」ための言葉であり、全ては自分の意思と行動にかかっています。例え失敗して帰りたくなったらいつでも沖縄に帰ればいい。
帰る場所があることは有り難いことです。だから皆さんには悩む前に一歩足を踏み出して欲しいと思っています。
根間はるか(ねま・はるか)
根間はるか(ねま・はるか)1992年11月22日生まれ。宮古島市出身。宮古高校、大阪大谷大学文学部英米語学科卒業後、大手家電量販店に就職。実演販売などを通してジューサーに興味を持つ。タイ・バンコクでの海外生活を経て帰国後、酵素マイスター準1級トレーナーの資格を習得し、27歳で酵素ジュース販売とお教室事業の合同会社「パ二パニ」を設立し独立。神奈川県横浜市での手作り体験教室や神奈川県近郊においてキッチンカーを利用した販売を展開。酵素ジュースの魅力を広めている。