そう語るのは沖縄食材の流通会社「株式会社香那ホールセール」代表の宇根良樹さん。
中国での生活でタフさを身に着け、恵まれた縁によって会社を興されて実感した人との出会いの大切さ、そして次世代へのメッセージを教えていただきました。
早く社会に出たかった
―現在のお仕事について教えてください。
首都圏を中心とした業務用沖縄食材の卸会社を運営しております。
―沖縄ではどんな幼少期を過ごしていましたか?
両親が共働きだったこともあり、自分を含めた3兄弟は祖母に良く面倒を見てもらっていました。
兄二人に倣って自分もそろばん塾に通っていましたが、遊ぶのが好きな子で何か1つの事に没頭するよりも色んな事に短いスパンで興味を持っていた気がします。
早く社会に出たいと漠然と思う中でホテル経営に興味を持っていました。おそらく家族で行った沖縄のリゾートホテルでの思い出が子供心に楽しかったという原体験があったのだと思います。
高校卒業後は専門学校で経営に必要な知識として簿記の資格を取得しました。
―それから本格的に経営者の道へ?
いいえ。まだ遊びたくて(笑)。“自分探しの旅”と理由をつけて社会には出ずアルバイトや車を売ったお金と不足分は両親からの多大な支援を元手に中国の西安に留学する事にしました。
西安という場所は北京から約1000キロ離れた中国大陸中央の都市ですが当時日本人は少なく、滞在費も月1万円ほどあれば十分と安い生活費もあって決めました。
―初の海外生活はどうでしたか?
最初は辛かったですね。当初は学期が始まる9月入学を予定していたのですが祖母が亡くなった事もあり到着したのは12月。
学生がほぼ帰省していてまともに中国語も話せない中でいきなり社会に放り出された感覚です。
何でも自分で行動しないと満足に暮らせない。だから死活問題ですよ。生活の為に必死になって言葉を覚えた事で先にいた留学生が戻った頃にはすっかり彼らよりも上達していました。
中国での生活がタフにしてくれた
―日本と大きく違うところはありましたか?
基本的に思い通りにはいきません。当時の中国はまず電車やバスが時間通りに来ない。無事に乗れたとしても20時間で着くところが60時間かかったり、あるはずの道がなかったりなんてこともありました。
あと何でも自己主張しないとダメ。日本人の様に「言わなくても分かる」「空気を読んで」なんて文化は存在しないので自分の要求を言葉や行動で伝えないと満足に生活もできません。
うまくいかない事を想定して予定や対策を立てるリスクヘッジにもつながりましたし、そういう環境で学生時代を過ごせた事は精神的にもタフになれたと思います。
―帰国後の進路について教えてください。
語学力を生かして海運系の物流会社でクルーズ船のキャストとして働いていたのですが半年で倒産してしまって。
それでも運よくスーパーマーケットの小売りを手掛ける金秀商事(本社:沖縄県西原町)の貿易事業部に転職することができました。
仕事内容としては海外の食品の買い付けやバイヤーと一緒に商品開発に携わらせてもらいました。
そのうち貿易事業部の主力事業が鋼材やゴルフの芝生や砂など食材以外を扱う事が増えたことでグループ全体の調達に関わった方が良いと部署ごと本社に転籍となりました。
加速度的に事業がスケールアップしていく中で独立採算制の金秀トレーディングという会社が立ち上がり、そこでグループ外の取引に携わらせてもらいました。
当時は20代半ばでまだまだ勉強させてもらう立場でしたが、そういうダイナミックな時期にいられたことは大きな財産となりました。
自分が売りたいものを売りたい
―その後、独立の道へと進まれます。転機となったものは何でしょうか。
国内外の様々な会社と取引をおこなう中で例え付加価値の高い製品があってもそれが必ずしも買い手のニーズと一致するとは限りませんでした。
自分が売りたくても売れない。そういう仲介業としてのジレンマを感じていて自分は作り手側に寄り添いたかった。ならば自分が売れる立場になろうと思うようになりました。
元々、食に興味があったので飲食業をやろうと考えましたが、ちょうどのそのタイミングで通関士の試験があったので、せっかくならば今後の保険の為にも資格を取得してから起業しようと思いました。
試験は確かな手ごたえあったのですが結果は不合格。解答も完璧だったはずですが、今思うと記述式の解答欄を1行ずらして書いていたのだと思います(笑)。
仕方なく飲食開業の目標はひとまず棚上げして引き続き通関士取得を目標に東京にある外国との貿易を仲介する海運貨物取扱業の会社に転職しました。
ここではもう一つの転機がありました。たまたま隣の席に宮良さんという沖縄出身の方がいて5歳で本土に出てきたと聞かされました。
所属した複合輸送部で宮良さんは通関業務をされていてその内容を観察していると、法令を調査して税率を見て申告するという代理人としての役割が中心。
海外に出て現地を視察して担当者と交渉をおこなってきた自分としては、ずっと事務所にこもって法令と向き合う業務は正直、魅力的には映りませんでした。
30歳までに自分の会社を興したいという思いもあり、やはり通関の仕事ではなく食の道に進もうと気持ちを固めました。
ある時に宮良さんと話をしていると、お父様が沖縄・東京間の物流システムを構築された方だという事を知りました。その中で関東の沖縄料理店が沖縄食材の調達に苦労しているという事を知り、これはもしかしたら自分の経験が生かせるのでは?と思うようになりました。
在庫を切らさずに安定した品質の商品を供給するのは高度な事ですが、自分にはその経験と人脈があると思ったからです。
宮良さんにお父様を紹介してもらい「本気でやるならば応援する」と言って下さり、また沖縄からの食材調達については前職の金秀トレーディングも間に入ってくれることになりました。
商品と物流が整う見通しが立って、2006年3月に個人事業主として香那(その後、香那ホールセールとして法人化)を創業しました。
事業計画や会社運営については2018年に他界した父から沢山アドバイスをもらいました。
―創業時のご苦労はありましたか?
最初の数ヶ月は必死でしたね。知人のビジネスを参考にしながら売り上げ予測を立てつつ沖縄料理店への飛び込み営業や知り合いの伝手を通じて少しずつ取引先を広げていきました。
営業も仕入れも配送も自分1人。配送に使っていた車が故障して途方に暮れることもありました。
それでも少しずつですが売り上げに見通しが立つようになって、翌年5月の法人化を機に前職でお世話になった宮良さんに声をかけて仲間になってもらいました。
先行投資もしていたので最初の5年は自転車操業といった感じでしたが、7年目、8年目ぐらいから黒字に転換させることができました。
現在、首都圏を中心に約300店とお取引をさせてもらうまでになりましたが、振り返ってみても歯車が少しでもずれていたら今はありません。私は本当に人の縁に恵まれたと思っています。
沖縄の食と文化を広げたい
―今後の目標を教えてください。
コロナ禍で飲食業界は甚大な打撃を受けており、沖縄料理店もその限りではありません。
彼らを応援する意味でも魚1匹からでも「必要な物を必要な量だけ必要なタイミングで」という商品計画をコンセプトに大規模店舗よりも競争優位性を持たせて生き残ってもらいたいと思っております。
従来の滞在型飲食が苦戦する一方で、テイクアウトやデリバリーへのニーズが高まっており、我々も変化が求められています。
これまで居酒屋をターゲットにした一本足打法でしたが、2021年2月からはキッチンカーを導入した沖縄食材の提供も予定しております。
また沖縄への修学旅行が中止となった学生たちの為に疑似体験として沖縄食材をふんだんに使ったお弁当(沖縄料理店が手掛けた本格派)の販売を開始し、その他にエイサーや三線、琉球料理教室や琉球舞踊などの文化的なものを絡め、様々なコンテンツを提供できるよう準備を進めています。
僕らの様なニッチな分野はいかに手元にあるものに掛け算をしてビジネスに変えていけるかが大事ですから。
あなた自身がどうしたいかを掘り下げて
―最後に読者にメッセージをお願いします。
やりたい事をやる。これに尽きると思います。やはり誰かに言われて動くと、いざ挫折をした時に踏ん張りがきかない。自分で導き出した答えに従って動く事が大切です。
僕も今でこそ社長をしていますが最初は勉強したくない、遊びたいという思いがスタート地点になっています。
「Connecting the dots(点を線でつなぐ)」とはアップル創業者の故スティーブ・ジョブズの言葉ですが、どんな経験でも今、振り返ってみると線で繋がっていたという事実を実感する事があります。だから失敗を恐れずにどんどん外に出て挑戦して欲しい。
日本では正解を求める教育ばかりが重要視されてきましたが、社会に出れば正解はありません。社会ではどんな問題を見つけて取り組み、どう解決するかがビジネスにもなり生きる目的にもなります。
その方法やタイミングは時代や環境によって異なり、僕と同じようにやったとしても再現はできません。
まずはあなた自身がどうしたいか。そこを掘り下げていけばきっとヒントは隠されているはずです。皆さんが己の意思と力で人生を切り拓いていく事を願っています!
宇根良樹(うね・よしき)
1976年浦添市生まれ 浦添高校を卒業後、国際電子ビジネス専門学校で日商簿記2級を取得。中国・西安への2年弱の留学を経て帰国。金秀グループで貿易・物流業務に携わったのち、2006年3月に東京で沖縄食材の卸売りをおこなう香那を創業。07年5月に香那ホールセールとして法人化。 現在は首都圏の沖縄料理店300店舗を中心に取引をおこなっている。