そう語るのは、那覇市出身のシンガーソングライター・永山尚太さん。
恥ずかしくて歌えなかった子供時代、アメリカでの生活、憧れの織田哲郎さんとの出会い、「ドサ回り」で鍛えられたアーティスト活動。
そんな多様な経験から得られた価値観、今みんなに伝えたいメッセージについて教えていただきました。
(2020/6/5)
人前に出るのが嫌でわざと下手に歌ってました
―現在のお仕事について教えてください。
シンガーソングライターとして、東京を拠点に北海道から沖縄まで、全国のライブステージを回っています。
―沖縄ではどの様な少年時代を過ごしていましたか?
今の自分からは想像できませんが当時は人前に出る事が苦手なタイプでした。
小学生の頃、独唱コンクールのクラス代表に選ばれそうになったことがあってわざと下手に歌って落ちたりしていましたね。それくらい人前で目立ちたくなかった。当然歌が上手いとも思ったことはありませんでした。
中学生になると友人に誘われてカラオケに行くこともありましたが僕は恥ずかしくて聴くだけ。 当時付き合っていた彼女がいたのですが僕があまりにも意固地に歌わないので怒って帰ってしまったんです。その事で危機感を感じ慌てて歌の練習を始めました。
初めてカラオケで披露したのが槇原敬之さんの「もう恋なんてしない」でした。
「上手い!」
その場にいた友人らの表情が一瞬にして変わったことが印象に残っています。すでにその彼女とは別れてしまっていましたけど(笑)、一曲一曲に感動してくれる友人の姿を見て自分の歌声で人を魅了することができるんだと驚きました。
そこからは歌うことが大好きになり、中3でギターを手に入れてからはとにかく家にこもって弾き語りばっかりやっていました。
公民館で行われた中学の卒業コンサートで初めてステージに立った時、静寂の後に拍手が巻き起こる感覚には鳥肌が立ちました。そこで表現する喜びを感じたことが、音楽の道を志す第一歩だったような気がします。
洋楽に憧れてニューヨークへ
―高校卒業後はアメリカに渡ったそうですね。
沖縄は身近に米軍基地があるので幼少期からアメリカ文化に触れる機会がたくさんあり、自然と興味を持つようになりました。
中学3年生の頃に英語の授業でその日に習う文章が歌詞の中に入っている洋楽ポップスを聞かせてもらう機会があり、それがきっかけでよりアメリカに憧れを持つようになりました。
肝心の英語の成績はあまり自慢できるものではありませんでしたが洋楽には完全にはまりましたね。最初に買ったCDはジョン・レノンの「Imagine」で、高校ではエリック・クラプトンやMR.BIGなどを聴いていました。
いつか本場のアメリカに触れてみたいという思いが強くなり、高校卒業後と同時に渡米を決意しました。
叔父の繋がりでニューヨークで日本食レストランを経営する沖縄の方を紹介してもらい、そのおかげで旅費だけではなく働く場所も住む場所も決まった状態で渡米することができました。
―アメリカでの生活はどうでしたか?
まるで映画の中にいるような感覚でしたね。自分にとっては憧れの場所だったので毎日が新鮮。その時は永住権を取得することが目標だったので日本に帰るつもりはありませんでした。
その一方で言葉はかなり苦労しました。最初の3ヶ月はチンプンカンプン。高校時代に英語で赤点ばかり取っていた自分を叱りたくなるぐらい(笑)。
日本食レストランとは言えお客さんはほぼ地元の方なので、分からない時はメニューを指差してもらいながらオーダーを取っていました。それでも失敗を繰り返しながらカタコトで話しているうちに徐々にコミュニケーションが取れるようになって3ヶ月目には英語の夢を見るようになりました。
好きな映画やテレビ番組も英会話習得の教材になっていた気がします。
ニューヨークと言えばミュージカルや演劇、ライブなどのエンターテインメントの街ですが、自分が働いていたレストランはニューヨーク市のはずれにあったので週末に多くのイベントが行われていたマンハッタンには平日の休みの日にしか行けませんでした。それでもその週1回の休みを楽しみにしていました。
―アメリカ生活の中で心境の変化があったそうですね。
アメリカで暮らすようになって感じたことは、家族や友人の存在の大きさでした。
これまで自分一人だけの力で生きてきたと思い込んでいましたが、いざ一人暮らしを始めてみると炊事も洗濯も何一つろくにできない自分に愕然とし、改めて親のありがたさと偉大さを感じました。
また、アメリカの若者達が自分の生まれた土地や文化、政治に興味を持ち大人と議論する姿を見て、あまりにも僕は自分の生まれ育った場所の事を知らないなとショックを受け、もっとよく沖縄や日本の事を知ろうと思えるようになりました。
そして外から沖縄を眺めてみると世界に誇れるような文化や自然があり、何よりも心優しい人達がいる事に気づきました。
ビザ更新の関係で久しぶりに沖縄に戻った時にはアメリカ永住の思いはどこかへ消えてしまっていましたね。
やり切った感覚が欲しかった
―帰国を決意した一番の理由は何ですか?
3度目に渡米した際、ブロードウェイミュージカルダンサーの卵たちと友達になりました。
彼らは真っすぐに夢に向かっていてそこに迷いは一切ありません。彼らの静かで激しい熱意に触れた時、自分はどこを目指しているんだと自問自答したら、何かしら理由をつけてやるべき事を後回しにしてきたことに気づかされました。
一番大切な「今」をないがしろにし、過ぎてしまった「過去」をふり返っては後悔ばかりしていたんです。
失敗したらどうしようと消極的で夢すら語れない現状に、失敗してもいいから自分はやり切った!という感覚が欲しかった。
それでずっと心に秘めていた音楽への道を選び、日本でアーティストとして活動する道を選びました。その日のうちに親にも友人にも音楽をやる!と宣言して退路を断つ形で帰国しました。
憧れの織田哲郎との出会い
―オーディションが運命を変えることになります。
帰国後もすぐ行動したわけではなく、消極的な悪い部分が出てしまい東京でしばらく悶々としていました。
ある日友人から「お前、オーディション1つでも受けたか?」と言われ、ハッとしました。
ちょうどその時、僕の学生時代のヒーローであるシンガーソングライターの織田哲郎さんがアーティストデビューを目指す若手を発掘するオーディションを開催していることを知り、友人に背中を押される形で応募してみました。
BEGINさんの「涙そうそう」と川口恭吾さんの「桜」を一発録りしたデモテープを送ったところ、オーディション事務局から電話があり「永山さんがオーディションの最終候補に残っていて、織田さんが直接本人と会って話をしてみたいとおっしゃっています」と。
まさか!と鳥肌が立ちましたね。
緊張しながら指定されたスタジオに出向くとそこには憧れの織田さんがいらして、面接のような感じでこれまでの経歴をいくつか質問されました。
「自分にはしっかりした音楽活動経験がない」と話したら非常に驚かれていました。
帰りがけに一曲披露してくれと言われ、咄嗟にエリック・クラプトンの「Tears In Heaven」を歌いました。しばらく何も音沙汰がなかったので半ば諦めかけていた頃、事務局からの電話で「永山さんに決まりました」とグランプリの知らせを受け、アーティストとしてのデビューが決まりました。
後日聞いた話によると、帰りがけに披露した歌がJ-POPでも沖縄の歌でもなく洋楽だったという意外性がグランプリの決め手だったそうです。
全国への“どさ回り”が歌手にさせてくれた
―デビュー曲「太陽(てぃだ)ぬ花」が生まれた経緯について教えてください。
オーディションを開催した会社が沖縄を題材にした映画「ニライカナイからの手紙」(脚本・監督:熊澤尚人、主演:蒼井優、2005年6月全国公開)の出演者を探すムービーオーディションも行っていて、そのプロデューサーが沖縄出身の僕がミュージックオーディションに合格したことを知り、「この偶然を生かさない手はない」と映画の主題歌で自分が起用されることが決まりました。
こんな幸運はないですよね。でも歌手活動経験のない人間をいきなり表舞台に出すわけにはいかないので、日本全国を回って人前で歌う“どさ回り”をすることになりました。
見知らぬ街の小さなカラオケボックスでお客さん2人の前で歌ったこともありましたが、これでかなりステージ度胸がつきました。
映画の主題歌となったデビュー曲「太陽ぬ花」のデモ音源は、ロケ地となった竹富島を訪れた時に織田さんから直々に渡されました。(織田さんも少しですが映画に出演されています)
まだ歌詞は入っていませんでしたが、織田哲郎節が随所に散りばめられたメロディーに泣きそうになったことを今でも覚えています。
当時の自分はただガムシャラに歌うことしかできませんでしたが、映画上演後のステージで歌わせてもらえる機会を頂いた時、全国を回ったことでようやく自分の歌にすることができたのかなと。
勿論、地元沖縄の映画館でも披露させてもらいました。映画出演者の一人である同郷の比嘉愛未さんとステージに立った姿を家族や友人に見せられた時はようやく1つの目標を達成できた気がしました。
固定概念を打ち払いたい
―その後も様々な経験を乗り越えて現在に至ったそうですね。
Kiroroの2人(玉城千春、金城綾乃)とは同い年だったこともあり親交がありました。彼女達を通じでBEGINの上地等さんと繋がり歌を披露したところレコード会社を紹介して下さり、本格的にメジャーデビューを果たすことになりました。
シングルやアルバムも出させてもらったのですが、しばらくして所属していた事務所がなくなり、CDリリースの販路を失ってしまいました。
でも不思議と悲壮感はなくて事務所がなくても歌える場所は自分で探せばいいと。伝手を頼ってライブができる場所を紹介してもらったり、CDの自主制作をおこなったりして表現する手段を作ってきました。
元々手先が器用なこともあり、CDジャケットのデザインを自分で手掛けた事もあります。
今では音楽だけでなく沖縄独特のデザインを取り入れた革製品のオリジナルブランドを立ち上げる準備もしています。自分のアイデアが形になるのは楽しいですね。もっと視野を広げていき、ミュージシャンは音楽だけで食べていくものという固定概念を取り払いたいです。
今後も音楽活動は続けますが、様々な創作活動を通して培った感性やパワーを1回1回のライブに濃く反映できたらと思っています。
―最後に読者にメッセージをお願いします。
新型コロナウイルスが巻き起こした社会の混乱で、今まで当たり前だった行動や価値観が音を立てて変わろうとしています。
目標を無くした人もいるかもしれませんが、きっとまた新たな目標が生まれる時代だと僕は考えます。
目に見えないウイルスとの闘いの中、不自由や我慢を強いられる日々ですが、未来永劫同じ状況は続きません。
インターネットさえあればどこにいても情報を手にできる時代です。日本だけでなく世界にも視野を向けてください。
どうかこの時間を利用して色んな可能性を探してみてください。
僕はこの世の事象はすべて起こるべくして起こっていると思います。
出会いも別れも必ず次の未来につながっていて、身の回りに起きることは自分への新たな気づきをもたらしてくれるはずです。
どうか悲観せずに自分が持つ無限の可能性を信じてください。そして「今」を全力で楽しみましょう!!
永山尚太(ながやま・しょうた)
1977年7月30日生まれ 那覇市繁多川出身。首里高校卒業後、アメリカ・ニューヨークに渡る。 帰国後、26歳で織田哲郎ドリームミュージックオーディションでグランプリ受賞。 2005年公開の映画「ニライカナイからの手紙」主題歌、「太陽ぬ花」でデビュー。 2006年7月には上地等(BEGIN)プロデュースのもと、テイチクレコードよりメジャーデビューを果たす。透明で独特な質感の歌声を全国へ届ける“出前ライブ”をライフワークとしながら、東京を拠点に活動している。
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