そう語るのは、ファッション誌「VOSTOK」の編集長として活動されている大城壮平さん。
故郷の宮古島を出て学生時代から編集のプロの世界で叩き上げで腕を磨き、「世界で一番面白い街」東京で独立するまでのプロセスとは。
また「雑誌は自分の魂の存在証明」というそのお仕事へのこだわり、東京で働いて自己実現するコツ、次世代へのメッセージを教えていただきました。
雑誌が外との世界を繋いでくれた
―現在のお仕事について教えてください。
ファッション・ライフスタイル雑誌「VOSTOK」の編集長として誌面の構成や取材、広告掲載まで全て1人で担当し発行しています。
―沖縄ではどんな日々を過ごされていましたか?
祖父が宮古島文化協会の会長をしていて、すごく博識で色々な事を教えてもらって記憶があります。母も本好きで幼少期から書物に囲まれて育ちました。
そのお陰で小学校高学年の頃にはカルチャーやファッション雑誌に興味を持つようになりました。当時は雑誌が情報源で「ストリートジャック」「Get-on」「BOON」といった裏原系の雑誌を愛読していました。
他にはアングラ系の雑誌や洋楽なども聴いていたと思います。僕にとっては雑誌が外との世界を繋ぐ窓口でしたね。早く外の世界に触れたくて高校では宮古島を出たいと思っていました。
親からも将来の為にも良い高校がいいと勧められて進学校だった那覇市の昭和薬科大付属高校に進学して寮での下宿生活を送りました。寮では他校の学生も交えてファッション誌や映画を見ながら情報共有をしていました。
今振り返ってみても住み慣れた宮古島を出て違う価値観を得られたのもよかったと思います。
沢山の情報に触れていましたが、知れば知るほど各分野の1位にはなれないなと感じました。 文豪の様な美しい文書は書けない。ファッションデザイナーのような服も作れない。 でも好きな情報をまとめてアウトプットするのならば1位を目指せると思い、それが編集者という仕事でした。
高校3年の時に書店で手に取った20代から40代を読者層に持つメンズファッション・カルチャー誌「Huge」に衝撃を受けました。自分が知らない情報が満載で、こんな雑誌を作りたいと強く思うと同時に東京に住みたいと意識するようになりました。
憧れの編集部でアルバイト、しかし・・・
―上京後の生活について教えてください。
浪人して早稲田大学の商学部に入学してすぐにファッション誌「Huge」の編集部に押しかけたのですが、アルバイトが人気で落ちてしまいました。
でもどうしても編集部で働いてみたかったので角川出版の編集アルバイトに受かることができたのですが、回されたのが短歌、俳句を扱う部署でした。
でも半年間やってみて編集の仕事にはコミュニケーション能力が必要だと実感したので、夜はバーで接客をしながらその能力を磨きました。
そして大学2年生で再び「Huge」での求人が出たので再度受けてやっと念願が叶いました。
自分の席がカリスマ的な編集者である右近亨さんの隣で色々と指示をされるのですが、作家やデザイナーの名前が全く分からないんですよ。
これでも自分では知っているつもりでしたがファッション誌での基礎的な事項も知らない現実を突きつけられて正直ショックでしたね。もっと知的好奇心を持ってアンテナを張らないといけないと痛感しました。
それからは空き時間を使って大学の図書館で本や映画を読み漁ったり、映画館でも何本も作品を観たりして知識の吸収に努めました。
―現在のキャリアに至った背景を教えてください。
3年生になって大学就職活動の時に右近さんに「お前はこの先どうするつもり?」聞かれました。大手出版社を考えていますと返したら「お前はここで何を見て学んできたんだ」と言われたんです。
編集は自分で吸収して発信する仕事だからサラリーマンの仕事に慣れては駄目だと。 「Huge」は右近さんの様な現場のたたき上げみたいな人が作ってきた雑誌なので確かにそうだなと思いました。
それで右近さんが独立してファッション誌「Them Magazine」を創刊するのをきっかけに、大学を中退して右近さんの右腕として働くことを決めました。
紙は毎回反省点があるから面白い
―編集の仕事を通して得たもの、やりがいについては。
国内外のトップアーティスト達と仕事を出来たことでしょうか。 まだ20代でしたがPRADAやDiorの撮影でアフリカ出張に行かせてもらったこともありますし、沖縄に帰って前衛美術の先駆者として“TOM MAX”の名前で知られるアーティスト、真喜志勉さんの特集を組んだこともあります。
8ページに渡るコラムも書かせてもらうなど毎回自分で企画内容を決められる裁量権を与えられていましたので、とにかく自分のセンスを信じてこれだ!というものを取材、編集して5年でトータル20冊ぐらいを手がけました。多い時は1冊平均200ページの内、半分を担当していました。
WEBは書き直しや写真差し替えができますが紙媒体は一度印刷したら修正できない。 でももっと時間があればこうできたのにという毎回反省点があがるのが面白いと思います。
スペースが限られていることも配置を工夫したり文章を吟味できたりする効果がありますからね。
編集者として大事にしていることは4つあります。クライアントを大切にする。クリエーター、アーティストの腕を試す場でありたい。読者の生活に刺激を与えるものでありたい。そして自分の為でしょうか。
でもこの4つのどれかが強すぎても駄目なのでバランスには気をつけるようにしています。
―なぜ独立をされたのですか?
20代で雑誌を作ってきて自分の城を持ちたい。もっとピュアに発信したいのが理由でした。
「Them Magazine」はある意味、右近さんの存在があって沢山の有名ブランドが協賛してくれている。良くも悪くも反応が返ってくる自分の力だけで雑誌を作りたいと思いました。そのタイミングが30歳でした。
辞めることを右近さんに話すときはきっと怒られると思いましたが、2つ返事で快諾してくれました。バイトの頃から何も知らない自分に色々な事を教えてもらい編集者にまで育ててくれた右近さんには感謝しかないです。
―現在、手がけている「VOSTOK」はどんな雑誌ですか?
基本ファッションやアートをメインにしていますが、特に読者層は設定していません。 メンズ誌ですが意外と女性の読者も多いんですよ。CELINEやSaint Laurent、C.Eも広告入れてくれました。
自分でも万人に受ける雑誌ではないと思っていますが、僕としては万人に受けるよりも10人のトップデザイナーやトップクリエイターに面白いと言わせたい。 これだけ出版不況といわれる中で生き抜くためには他と違う事をしないと注目されないんです。
だから紙質は例え赤字になってもこだわっています。手に取った人の記憶に残るように。
お陰で創刊号では青山ブックセンターでは壁1面においてくれて代官山蔦屋書店ではトークショーもやらせてもらいました。
ファッション誌はカタログ的なものが多いですが、それを敢えて紙で印刷する必要はないと思っています。WEBで十分。だから僕が紙にこだわるのは手に取った人に何かかっこいいと思わせたいからです。
だから写真1枚にしてもインパクトを心がけています。日本ではこういう構図を採用しているのは少ないと思います。写真の1枚の説得力を大事にしたいですね。
お陰様でWEBサイトもまだありませんが雑誌は人づてで広がっていますし、生活できるだけの収入はあります。
僕が好きな編集者の言葉で「雑誌は自分の魂の存在証明」というのがありますが、まさにその通りになっています。
―今後の目標について。
まずは知られて続けていくことが大切です。今は1人で作業をしているのでここから規模を大きくして一般に向けて部数を増やしたいですね。
あとは「VOSTOK」以外でいうと規模の大きいプロジェクトに関わり、将来的には沖縄のアーティストだけでも1冊作れたら面白いと思っています。
東京が世界で一番面白い街
―東京という街は?
海外色んな街に行っていますが東京が一番面白いと思います。コンパクトにまとまっているし刺激的ですよね。それぞれの分野のスペシャリストが集まっています。
僕は昨日の自分よりも成長していたいと思っています。そういう意味では東京は色んな人や情報、機会に溢れていて自分をアップデートしやすい所だと思います。
宮古もいいがやっぱり自分に甘えてしまう。色んな情報を選択するためにも知識が必要。その知識を得るためにも東京が一番の街だと思います。
―沖縄の読者へメッセージを。
自分のスイッチの入れ替え方次第で知識を吸収できる方法はたくさんあります。僕は吉田松陰の「知って死ぬのと、知らずに死ぬのは全く違う」という言葉の重みを感じて実践しています。
どこにいても自分の心持ちしだいで勉強はできます。どうか知的好奇心を持ってやりたいと思ったら失敗してもいいので一度取り組んでみてください。僕も失敗覚悟で創刊したら次のチャンスが待っていました。
行動をせずにやらない理由を探すのはあまりにももったいない。だから恐れずに進んでください。
大城壮平(おおしろ・そうへい)
1988年9月10日生まれ 宮古島市出身。 平良中―昭和薬科大付属高校―早大商学部中退 大学2年から雑誌「Huge」(講談社)」編集部でアルバイト開始。ディレクターの右近亨氏に見出され、右近氏が独立を機に、中退し、「Them(ゼム) Magazine」(Righters)に創刊から立ち上げにかかわる。18年10月まで、編集者として活動。2018年11月に独立、ファッション紙「VOSTOK」を19年3月に創刊し、現在、編集長として年2回発行している。