島を旅立つ君たちへ

島を旅立つ君たちへvol.16 渡名喜織恵さんインタビュー

渡名喜織恵さん 仕事論

そう話すのは那覇市出身のフリーアナウンサー、渡名喜織恵さん。

トヨタの広告塔「トヨタプリティ」で仕事の姿勢を厳しく学んだ後、学生時代から楽しんできたスポーツや音楽などの魅力を幅広く伝えるフリーアナウンサーになるまでの道のりで得た仕事論、そして沖縄の若者へのメッセージを教えていただきました。

 

ラジオの世界に憧れた幼少期

池村昌彦さん

 

―現在のお仕事について教えてください。

フリーアナウンサーとしてFMラジオのニュースコーナーやテレビでは経済番組や自治体の広報番組を担当するほか、イベントの司会などもおこなっています。

また現金を持たない生活を実践する“キャッシュレッサー”としても情報を発信しています。

―沖縄ではどんな日々を送っていましたか?

旅行会社に勤めていた父の仕事の関係で愛知県で生まれて2歳まで暮らしていました。 その後那覇市首里に戻ってきてからは活発な幼少期を過ごしていました。

物心がついた頃から音楽が好きで、ピアノを習ったり好きな歌手を真似てソファをステージに歌を歌ったり、ラジオやテレビの音楽番組に夢中になっていました。特にラジオは洋楽が流れる深夜の番組を布団の中でこっそり聴いていました。

父の車でドライブしながらFEN(米軍の極東放送)のヒット曲やスタンダード曲、そしてDJの軽快なトークに聴き入っていました。スピーカーから流れる異国情緒溢れる音楽や巧みに言葉を操る喋り手の心地良い声に憧れを持つようになりました。

それからもう一つ夢中になっていたのがスポーツです。五輪やプロ野球、スポーツニュース番組などテレビを食い入るように観ていました。

特に高校野球はテレビ中継だけではなく通っていた小学校近くにある興南高校の練習を観に行き、当時甲子園で準優勝した沖縄水産の選手を見に糸満まで友達と行ったこともありました。

 

裏方ではなくて表に立つべき?

―大学生活について教えてください。

好きな音楽や情報を発信している東京への憧れがあり関東の大学を志望していましたが、第一志望校に合格することができずに併願した宮崎公立大学に入学しました。

実は最初はこの大学への入学は考えていませんでした。もう一年勉強して関東の大学を目指すつもりでしたが公立大学なので入学料もそこまでかからないし、宮崎に行ってみたいという母の意向もあって旅行気分で入学式に参加しました。住むところも決まっていなくてホテルから入学式に行きました(笑)。

そんな軽い気持ちで参加した入学式で運命の出会いがあったんです。最初に仲良くなり後に生涯の親友となる子に事情を話したら、そのお母様が私のマンションの手はずを整えて下さって。楽しい日々を過ごしているうちに気付いたら4年間宮崎で大学生活を送っていました(笑)。

飲食店やホテルのサービス、イベント運営等のアルバイトを掛け持ちし、地元の催し物やお祭り、コンサートに足を運んだり、美味しいものを食べ歩いたり、海に行ったり、プロ野球のキャンプを観に行ったりと、とにかく学生生活を謳歌しました。

計画性のある性格ではないので将来はあまり考えずに今をめいっぱい楽しむ生活を送っていました。

そんな私とは対照的に親友は将来をしっかり考えてその為の行動を着実に積み重ねていました。実は彼女が元々アナウンサー志望で大学在学中から宮崎の放送局でお天気キャスターとして活躍していたんです。

そんな彼女の行動力を羨ましく思いつつも何も出来ない自分にモヤモヤした日々を過ごしていましたが、よく足を運んでいたイベントやお祭で顔見知りになっていたケーブルテレビ局の方がたまたま大学に取材に来ていて音楽番組のアシスタントをやらないかと声をかけてくれて、初めてテレビ出演という経験をしました。

1年ほどの出演の中で番組の作り方や進行など色んな勉強ができましたし、憧れの音楽番組に携れた喜びや刺激もあったのですが、元々人前に出るのが得意ではなかったこともあり、将来これを仕事にするという選択肢はこの時はありませんでした。

気がつけば大学4年生。周りは就職活動をして続々と内定をもらっている状況でも、のんびり屋の性格もありまったく活動をしていませんでした。

そんな中、私の誕生日を友人達が祝ってくれていたお店でまた人生を導いてくれる出会いがありました。

隣の席にいた方が私達が大学4年生だと知り就職は決まったのか聞いてきました。当時の私はエンターテインメント業界への興味と何か人を喜ばせる仕事がしたいというぼんやりとした目標はありました。

その中でアルバイトでも関わっていたスポーツイベントやコンテンツを作る仕事も面白そうだなと思っていたのですが、その声をかけてくれた方が大手広告代理店のスポーツ部門の方で、その繋がりからOB訪問をする機会を頂いて東京に行きました。

お話をするうちに「君は裏方ではなくて、表に立つ方があっているんじゃないかな」と言われてしまって、すっかり方向性が分からなくなりました。

 

大手自動車メーカーの広告塔に

―どの様にして社会人としての第一歩を踏み出しましたか?

途方に暮れていた就職活動の中で就職雑誌のページをパラパラとめくっていたら、とても素敵な女性が特集されているページが目にとまりました。トヨタ自動車の広告塔として広報業務をおこなうPRアテンダント「トヨタプリティ」というお仕事でした。

私もこんな女性になりたい!という思いだけで夢中で応募した事を覚えています。

面接は5次まであり、志望者にはタレントやミスコンを経験した人も多く、都会的で洗練された学生の中で真っ黒に日焼けして地方から頑張って出てきましたという感じの私はどう見ても浮いた存在だったと思います(笑)。

正直場違いな所に来てしまったなと最初はたじろぎましたが、面接を突破するごとに益々この仕事をしたいという気持ちが大きくなり、最後は絶対に合格したい!と必死でした。

考えてみればこの仕事もトヨタの魅力を多くの人に伝え、人を楽しませたり喜ばせたりできるという意味でぼんやりと描いていた目標に通じていたと思います。

頑張った甲斐あって運よく合格したのですが、親や友達に報告してもこの職業を知っている人が沖縄には誰一人いなくて、私がレースクィーンになるという噂も飛び交っていたようです(笑)。

 

華やかな世界。しかし・・・

―ついに念願の上京を果たされたわけですね。東京での生活について聞かせてください。

とにかく世界中から人や文化、エンターテインメントが集まる東京に行きたかったのと、自分の力だけで暮らしてみたいという願いが叶って東京生活がとてもまぶしく感じました。

でも仕事は思っていた以上に大変でしたね。とにかく研修がハード。エンジンやサスペンションなど車の基本構造や、自社だけでなく他社の車両知識に加えて、話し方から歩き方、立ち居振る舞いまで厳しく指導されました。特に私は沖縄なまりがあったのでとても苦労しました。

研修の帰り道にファストフード店に同期で集まって終電間際まで泣きながら勉強したり励ましあったりした事は良い思い出です。

慣れない都会暮らしも重なり、疲れて帰って玄関で倒れるように寝て朝を迎えたことも何度かありました。

またモーターショーやイベントで全国を飛び回るという生活も経験しました。一つ一つの所作、行動もトヨタ自動車の顔として恥じないようにという緊張感の毎日だったように思います。

一見華やかな世界ですが、その裏には地道な活動があるんだと身をもって感じました。

東京に来てしばらくは人のあまりの多さに真っ直ぐ歩くことができずしばらく立ち止まってしまうこともありました。また当時はスマホの地図もなかったので、地上だけでなく新宿や池袋の駅の中で迷子になることもよくありました。

当然、交通系電子マネーが無かった時代。電車の乗り継ぎ切符の買い方が分からず苦労していましたね。もたもたして後ろに列を作ってしまうのが嫌だったので、必要以上に多めの運賃を買ったりしていました。

そんな慣れない都会生活と社会人生活のスタートでしたが、友人や同僚、先輩方や上司、会社の方々に助けられて色々な困難を乗り越える事ができました。

こんなのんびり屋の私が今まで暮らせて来られたのも、周りの人達が理解してくれて気にかけてくれたから。これまでいただいて来た沢山のご恩に心から感謝していて、今度は私が多くの人に手を差し伸べられる立場になりたいと思っています。

 

念願のラジオへ!リスナーから届いた1通の手紙には

 ―その後、現在のキャリアに至った経緯を教えてください。

トヨタプリティを2年間務めたのちに『アムラックスミレル』というさらに車に精通したコンサルティング業務を1年間担当しました。

その後も同業務の延長を打診していただきましたが車の事だけではなくもっと色々な事を伝えたい。子供の頃から好きだった音楽やスポーツの魅力を伝える仕事がしたい!という思いが強くなり、新たな世界へ踏み出すことを決めました。

厳しい世界を心配する上司が強く引き止めてくれて、環境の良い職場だったので悩む部分もありましたが、夢に対する気持ちの方が勝って会社も最後は背中を押して下さいました。

ただその時も実はアナウンサーという選択肢は考えていなかったのですが、たまたま手にしたオーディション雑誌がアナウンサー事務所特集だったんです。色んな事務所を受ける中で出会ったのが現在の事務所です。

当初は普通の芸能事務所に所属する予定でしたが、今の事務所の社長が毎日のように電話をくれて熱心に勧誘してくれました。

アナウンサー事務所ということで経験もない私ができるのかな?という不安や、考えていた方向性ではなかったので最初は迷いましたが、社長が女性という安心感に加えてスタッフの方の真摯な姿勢もあって所属することを決めました。2002年の秋。27歳の時でした。

所属当初は仕事も少なく貯金を切り崩しながらの生活でした。節約のために仕事現場まで徒歩で移動したり、これまでのように外食や趣味にお金を使うこともできず、とにかくアナウンサーの技術を身につける勉強に打ち込みました。

カラオケボックスは大声が出せるから発声練習に良いと勧められましたがそのお金ももったいないので、河川敷に出かけ電車が大きな音を立てて通過するタイミングで発声練習をしていました。

時間だけはたっぷりあったので、駅で行き交う人や見える景色を実況してみるということをしていました。この時の日々が今に繋がっていると思います。

しばらくして初のレギュラー枠をラジオの早朝番組で持つことができました。念願のレギュラーという事で、どうすればリスナーの人達に受け入れてもらえるか試行錯誤しながらの挑戦でしたが、マイクを通した向こう側に語りかける気持ちで真っ直ぐ向き合う姿勢は大切にしていました。

特に早朝ということもあって「今日一日前向きに頑張っていきましょう」というポジティブな内容を心がけていました。

ある時リスナーの方からの手紙を頂きまして「人生に疲れてしまい、死ぬことも考えていたが、あなたの明るい声に励まされて踏みとどまれた」と書いてありました。

何も特別な事は話していませんでしたが、少しでも誰かの役に立てたのかなと思うとこの仕事を選んで良かったなと。今でも仕事を続けていく上で励みになっている出来事です。

その後はラジオだけでなくテレビや司会のお仕事も多くいただくようになり、報道や経済、スポーツ、情報番組など様々な経験を積ませてもらいました。全く未知の分野もありましたがトヨタ時代に培った勉強姿勢などが生きたような気がします。

 

 

2011年の東日本大震災の時にはニュースルームに日々悲痛な被害状況を伝える原稿が入ってきました。文字の奥にある場面や被害に遭われている方の姿が浮かび精神的に辛かったこと、そしてそれ以上に自分の無力さを痛感してしまい、この仕事は向いていないのではないか?と辞めることを毎日のように考えました。

アナウンサーに向いていないから辞めたいと事務所に話をしに行ったところ「仕事が入るのは必要とされている証拠。逃げずにもう少し頑張ってみたら」と社長が言って下さって、今まで続けて来られました。

この17年間振り返ってみると、支えてくれた方々との出会いと、どんな仕事にも全力で取り組んできたことで今があると思っています。

―今後の目標を教えてください。

これまで積み重ねてきた経験に加えて新たな挑戦もしてみたいと思っています。そして来年は56年ぶりの東京オリンピック・パラリンピックが開催されるので、大好きなスポーツの仕事にも関われたらと思っています。

また故郷の沖縄でも仕事がしてみたいですね。言葉は誰かを励ます優しさにも傷つける武器にもなると思っています。これからも言葉を大切にメディアを通して皆さんの生活に潤いをもたらすことができたらと思っています。

 

好きな事が人生を拓く事もある

―沖縄の若者にメッセージをお願いします。

自分は出会いによって導かれた人生だと思っていますが、あの時トヨタプリティの試験を受けるという一歩やアナウンサーという新たなステージへの一歩踏み出したからこそ今があると実感しています。

沖縄は居心地も人も良いので、そこから出ることは勇気がいることだと思います。また出たいと思っていても、人によっては超えられない壁があるかもしれません。

でも決して「自分は無理」と決め付けないでください。行動を起こせばきっと小さくても道が見えてきます。 そして、コンプレックスに目を向けるのではなく、自分が好きな事や情熱を注げる事を見つけてみてください。

私は学生時代に部活動をやっていなかった事や特技がない、資格を持っていないなど沢山のコンプレックスがありました。

でも思い返せば音楽やラジオを浴びるように聴いたり、スポーツ観戦やイベントに行ったり、美味しいものを食べ歩き色々なところに出かけて沢山の人と話したり、好きな事をやってきました。今になってそれが仕事に役立っていることが沢山あると感じます。

番組でのトーク、食レポやインタビュー、自分が好きでやってきた事が活かせている部分が色々とあります。

人前で話すことが苦手だった私がこうしてマイクの前に立っていることは今でも信じられません。でも好きだったから辛くても続けてこられました。

憧れていたアーティストとお仕事ができたり夢中になっていた高校野球のお仕事をしたりと、子供の頃の私が聞いたらとても驚くだろうなと思う機会をたくさん頂いております。

好きなことに打ち込んだ時間がそんなご縁を運んできてくれたのだと思います。

たとえそれが仕事に直接繋がらなくても、好きな事や夢中になれるものを持っていると壁を乗り越えられたり、悩みを解決してくれたりと人生の助けになる時が来ます。

何も無駄なことはありません。是非、好奇心のアンテナを張って、毎日を楽しんで色々なことにチャレンジしてみてください!

 

渡名喜織恵さん
渡名喜織恵(となき・おりえ)

1975年 那覇市出身 父親の仕事の関係で、2歳までは愛知県で育つ。 首里高校から宮崎公立大学人文学部国際文化学科を卒業。株式会社トヨタエンタプライズでの広報業務「トヨタプリティ」として3年間活躍。2002年からフリーアナウンサーとして、テレビ・ラジオ・イベント司会など幅広く活躍する。現在の主な担当番組は、TOKYO FM系「ドライバーズインフォ」「JFNニュース」、群馬テレビ「ビジネスジャーナル」など。キャッシュレス決済をつかいこなす“キャッシュレッサー”としての一面も。(株)ライムライト所属

 

平良
渡名喜さん、お話ありがとうございました!

 

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