そう語るのは宮古島出身のシンガーソングライター、YAASUUさん。
意外なきっかけから音楽の道を志し全国を回るようになったキャリア、東京という街の価値観、沖縄の若者へのメッセージを教えていただきました。
バンド活動に没頭した3年間
―現在のお仕事について
東京を基点に全国でライブ活動をおこなうシンガーソングライターとして活動する傍ら、宮古島市公認の宮古島大使として島の魅力を発信しています。
―沖縄ではどんな日々を送っていましたか?
男4人兄弟の三男として育ちました。叔父はミュージシャンの下地暁、兄も県内でバンド活動をおこなっており、身内にミュージシャンがいたこともあり、音楽に傾倒しやすい環境だったでしょうか。
高校生の時に同級生らとモンゴル800さんやオレンジレンジさんのコピーバンドを結成して遊び半分ですがライブをやった事があって、仲間とひらいたイベントには200人ぐらいが集まったんですね。
これは個人的な意見ですが、沖縄本島や八重山諸島と比べると宮古島は音楽文化というか、エンターテインメントが薄い印象があります。
だからライブをすると皆集まって盛り上がってくれる。人前で歌う事が初めて気持ちが良いと感じた瞬間でした。以降、高校3年間はバンド活動に明け暮れていました。
宮古島独特のコミュニティーを離れたかった
―上京のきっかけは
高校で音楽に熱中はしましたが、あくまでも思い出に残ればいいかなぐらいで将来の選択しとしては考えていなかったです。
それで進路を考えた時にテレビから流れてくる言葉は基本、標準語じゃないですか。雑誌で見る素敵なファッションや、大きな音楽フェスもほとんどが東京発信で、これは行くしかない!と。
また知らない土地に出て沢山友達を作りたいという思いもあり、憧れだけで東京で暮らす事を目的にしました。
一方で、宮古島はコミュニティーの団結が強い分、そこを外れて何か人と違う事をやろうとする勇気が出なかった。
裏を返せばそれが結束力に繋がっているとも言えますが、僕はそれが窮屈に感じている時もあり、一度離れてみたいと思いが強くありました。それで同じく東京に憧れを持つ同級生たちと一緒に上京しました。
居酒屋でのステージがきっかけとなって
―東京での生活について
東京は全くつても縁もない場所でしたが、宮古島では考えられない色んな人達と出会えることができました。目にするもの全てが新しく感じ、毎日刺激に溢れていましたね。
新宿歌舞伎町の沖縄料理屋でアルバイトをしていたのですが、そこのオーナーが三線ライブをしていて、ある時「お前も音楽できるなら、歌ってみろ」と言われて、緊張しながらも高校の時に歌っていたモンゴル800の「小さな恋の歌」をステージで披露したんですね。そうしたら思った以上にお客さんの反応が良かったんです。
そこから何か手応えというか、真剣に音楽をやってみたいという思いが芽生えてきました。
最初は宮古島の狭すぎるコミュニティーに反発があって出てきた東京ですが、最初の頃はよく宮古島の仲間と集まっていたのは事実です(笑)。
でもやはり心を許せる仲間というか、お互いに嫌な事があっても同郷の仲間だから共有できる話もある。そういう意味では宮古島出身というありがたさは感じることができました。
ソロ活動開始。宮古島を知ってもらいたい
―現在のキャリアに至った経緯は?
上京して4年ぐらいが経った時に宮古島からメジャーデビューした「GULLF」というバンドのベーシストの方がお店にお客さんとしていらして、話が盛り上がってライブに誘われたんですね。
するとそのライブ会場でまた別の宮古島出身の方の「FAT KAZYA BAND」というバンドを紹介してもらって「同じ宮古島出身で音楽に愛があるなら一緒にやらないか」と声をかけられて、そこからプロミュージシャンの道を歩み出しました。
最初に立たせてもらったステージが400人ぐらいのお客さんが入っていて、高校時代のステージが霞むぐらい、プロのステージの熱量は半端なかったです。
そこからは毎日が勉強でしたね。音楽の世界に身を置くことによって色んな人達との出会いが広がっていきました。
それでも宮古島のアララガマ精神というか、負けたくないという気持ちは常に持っていましたね。最初はだから結構トゲトゲしていたかも知れません。俺たちが一番だぜ!みたいな。
その後にバンドが休止になるにあたってメンバーやプロデューサーの方から「良いモノ持っているからソロでやってみれば」と後押しをしてくれました。そこから今のYAASUUが誕生しました。2014年の事です。
「沖縄まつり」や「はいさいフェス」など、関東の沖縄関連のイベントはほとんど出させてもらって、今は全国を回っています。
お陰でディアマンテスさんや、きいやま商店さんと一緒に台湾でライブをおこなったこともあります。
タワーレコードからCDを出した時は日別売り上げで2日連続1位になった事もあります。一瞬ですが、乃木坂48にも勝ったことになりますね(笑)
所属していた「FAT KAZYA BAND」が宮古島をテーマにしたバンドだったこともあり、僕も宮古島のテイストを入れた曲を出しています。
例えば「西里通り」という曲があるのですが、これも昔の思い出を書き始めたらあっという間に出来上がった曲です。
根底には宮古島を全国にアピールしたい思いがあります。上京したての頃に出身地を聞かれて「それどこ?」と言われたことが悔しくて。何か自分でも出来ることはないかと思ったことがきっかけです。特に沖縄のイベントで宮古島の曲を歌うと盛り上がりますしね。
宮古島大使は18年4月から任命されました。これまでの活動を認めてもらって。 地元出身では宮古島まもる君と一緒に活動しています(笑)。
今はダンスナンバーに宮古の方言を入れたものを作曲中です。ビートと方言の融合みたいなものを考えています。
毎年2月と12月に「YAASUUと行こう宮古島ツアー」というイベントをやっています。 前回は60人ぐらいのファンが来てくれて、地元からも高校生が参加してくれたんですね。
高校生がライブに足を運ぶのがとてもびっくりして。僕の宮古島と東京で培ってきた音楽に興味を持ってくれたのかなと思っています。
下を向いていると飲まれてしまう街
―あなたにとって東京はどんな街ですか?
ずっと刺激がある一方で、少しでも下を向いてしまうと飲まれてしまう街でしょうか。
上を向いて行動ができれば出会いや色んなものが見つけられるけど、ネガティブになって内にこもってしまうと、あっという間に流されてしまいますね。
だから何をしにここに来たかという明確な理由が必要であり、何かを探しにくる場所ではないと思っています。
地元にいると何か1つ嫌なことがあると、地域が狭いこともありなかなかそれを断ち切ることが難しいけども、東京であれば職場やコミュニティーを離れたらまた違う場所が待っているという選択肢が多い気がします。
でもその分、人間のつながりが希薄な感じはしますよね。あと特に仕事に対しては、なあなあの感覚が許されないです。
仕事はきっちり仕事としておこなう。この仲だからこれぐらいで大丈夫だろうといった甘えは許されません。
僕もそれで沢山失敗をしてきましたが、沖縄の感覚では全く通用しませんね。
僕は辛いことがあった時には敢えて知らない場所に行って新しい出会いを探していきました。全く新しい視点を学べるというか。そういった事ができるのが沢山の考えを持った人達がある詰まる東京だと思います。
でも心は常に宮古島に向いているつもりです。
夢は紅白出場!
―今後の目標を教えてください
宮古島大使を通じて沖縄県内からも仕事を依頼されることが増えてきました。RBCiラジオで宮古島情報やライブ情報を発信するレギュラー番組「YAASUUのMusic Time」(毎週月曜~金曜17:25-30)もその1つです。
最終的な目標は紅白に出る事ですね。
その為にはメディアで露出することが大事です。あとは地道に営業して活動し止まらないことですね。 地元に1週間いたら居心地良すぎてもう戻れないです。だから敢えて今東京で住んでいるところも沖縄の友達がいないところにしています。
沖縄の人は飲みが好きじゃないですか、近くに住んでいると呼ばれてしまう。今は夢の達成の為に、厳しく追い込んでいます。
沖縄では体験できない“自由”を
―最後に沖縄の若者にメッセージをお願いします
1回島を出てみることをおススメします。居心地いいところから一度出てみて、知らない土地を経験して欲しい。それでもその場所で必ず仲間は出来ます。勇気を持って出てみることで沖縄の良さも知ることができます。
一方で新しく何でも始めることができるけども、その結果や責任も伴う、沖縄では体験できない“自由”も体験できると思います。
理由は何でもいいのです。戻りたければ戻ればいいですし、また別の場所に行っても良い。
目標に向かって進むことは失敗や辛いことも多いけども、特に宮古島の後輩たちにはアララガマ精神を持っていれば必ず乗り越えられると伝えたいです。
YAASUU(やーすー)
1989年宮古島市生まれ。 宮古高校卒業後に上京。「FAT KAZYA BAND」のヴォーカルを経て、2014年にソロ活動を開始。これまでにアルバム2枚をリリースし、東京を起点に全国でライブ活動を展開する。琉球朝日放送(QAB)の深夜の天気コーナーでPVが流れるほか、日本トランスオーシャン航空(JTA)の機内放送でも曲が採用されている。現在、RBCiラジオで宮古島情報やライブ情報を発信するレギュラー番組「YAASUUのMusic Time」(毎週月曜~金曜17:25-30)を放送中。2018年4月から宮古島市公認の宮古島大使としても活躍中。