島を旅立つ君たちへ

島を旅立つ君たちへvol.12 国吉大将さんインタビュー

国吉大将さん 仕事論

そう話すのは、国際協力機構(JICA)の本部職員として平和構築支援に取り組む国吉大将さん。

興南高校では沖縄県勢初の甲子園春夏連覇の偉業も経験し、祖父から聞かされた沖縄戦の記憶から世界の平和支援を志すまで、そして沖縄、日本を出て気づいた自己実現のコツについて教えていただきました。

 

興南高校メンバーとして甲子園春夏連覇を達成

国吉大将さん

 

―現在のお仕事について

日本の政府開発援助(ODA)の実施機関として開発途上国への支援を行う国際協力機構(JICA)で、ラオスを初めとする途上国の中小企業振興と貿易・投資促進を担当しています。

―沖縄ではどんな日々を送っていましたか?

小さい頃から体を動かす事が大好きで、小2から双子の弟、大陸(たいりく)と野球を始めました。

中学では宜野湾ポニーズで硬式野球に進み全国大会にも出場しました。全国大会ではすぐに負けてしまいましたが、そこでもっと野球がうまくなりたいという思いが強くなり、高校では沖縄県内の強豪校、興南高校に弟と一緒に入学しました。

そこで後に甲子園春夏連覇(2010年)を達成する事になる島袋洋奨(現ソフトバンク)や、主将の我如古盛次らと出会い共に野球漬けの日々を送りました。

猛練習の甲斐もあって2年生からベンチ入りして試合にも出ていましたが、3年になるとレギュラーから外れて3塁コーチャーに回ることになりました。

弟の大陸はスタメンでセカンドを守り、甲子園にも出場する姿を見ていて悔しいという思いよりも家族が活躍する姿を見て嬉しく、自分は3塁コーチャーとしてチームを支えようと決心しました。

恩師の我喜屋優監督は元々、社会人野球の監督をして日本一になった事もあり、僕達高校生に対しても一人の大人として接してくれていた気がします。選手起用などはシビアで実力第一主義でしたが、そのお陰でプロ精神を学ぶことができました。

自分は一度も甲子園の打席に立つことはありませんでしたが、史上6校目という春夏甲子園連覇の瞬間を仲間と共に分かち合うことができた事は人生において宝物です。

やはり一番と二番になる事は大きな差があり、一番になる事はそれだけで価値があるものだと。日々全国トップを意識した練習を通じて今の自分の根幹を作ってくれた貴重な高校3年間だったと思います。

 

沖縄戦の語り部だった祖父が教えてくれたこと

―上京のきっかけを教えてください

常日頃、我喜屋監督からは「野球を終えても、人生のスコアボードは続く」と言われていて、野球に打ち込みながらも高校卒業後の進路を意識していました。

ある時にテレビのドキュメンタリーで紛争地に飛び込んで武装勢力と途上国政府との間を仲介し、兵士の武装解除と社会復帰のための支援をおこなう「平和構築支援」という仕事の存在を知りました。

また祖父が沖縄戦の語り部をしていて戦争の悲惨さを小さい頃から聞かされていたことも原体験となっており、時代が進んでも世界各地で紛争やテロが無くならない背景には何があるのか?また自分が世界平和に貢献できることないだろうか?という思いが芽生え、「平和学」「平和構築学」が学べる早稲田大学社会科学部を志望しました。

―上京後の生活はどうでしたか?

大学4年間は姉と弟と共に高円寺で共同生活を送っていました。最初の半年は東京での生活に慣れなくて、ずっと沖縄に帰りたくてしょうがなかったです。

週末に一緒に上京した沖縄出身の友人たちと会うことを楽しみに毎日を過ごしていました。

でも半年もすると大学での友人も増え、東京の良い面も見えてきて、だんだんと東京の街が居心地のいい場所に感じてきました。

大学生のときには春夏の長期休暇を使いバックパッカーでイランやメキシコなど3週間ほど旅をするなど、大学生のときにしかできないこともしました。

大学4年生の頃は興南高校から一緒に上京した野球部の友人が六大学野球や東都リーグで中心選手として活躍するようになっていたので、週末のたびに神宮球場に足を運んでいた記憶があります。今考えると、毎日非常に充実した生活を送っていました。

 

ソマリア人留学生との出会い

―現在のキャリアに至った訳は?

早大在学中に戦争孤児として日本のあしなが育英会の援助を受けて留学していたソマリア人学生と出会い、彼らと共に学生団体を立ち上げました。

その活動の一環としてケニアにあるソマリア人移民居住区を訪れる機会があり衝撃を受けました。

不衛生な環境で暮らしていたのは紛争に疲弊し、夢や希望があっても、実現する機会や術をもたない人々。

国際社会からの拠出金も抜本的な解決には至ってはおらず、紛争は一元的な考え方では解決できない事を痛感しました。

リサーチを進めるうちに紛争の原因は主に貧困や雇用問題に起因することが多く、持続可能な援助のためには難民の自立を促進させる経済の力が必要だという結論に達しました。

元々、数字やグラフを扱う経済学に興味があったこともあり、大学卒業後は英語力の向上も兼ねて英国の大学院に進学。英国での2年間は世界各国の中央銀行やコンサルティングファーム、企業家の学生らと机を並べ、刺激に富んだ日々を過ごすことができました。

経済学修士号を取得し、帰国後は志望していた国際協力分野の1つである国際協力機構に入構することができ、社会人としてのスタートを切ることができました。

 

国づくりの根幹に関わるダイナミックな仕事

―お仕事のやりがいについて

1年目に研修の一環として、ミャンマーに3ヶ月間滞在して現場を学ぶ機会がありました。各地で展開するプロジェクトの専門家達がどの様なビジョンとタスクを持って現地政府と協働しているのか。かつての軍事政権国家が民政に移管されて、日本企業をはじめとした世界各国が最後のフロンティアとして盛んに支援を行う、まさに国が生まれ変わろうとしている瞬間に圧倒されました。

現地の中央銀行と協力して貧しい人々向けの融資制度を新設する支援や、鉄道などのインフラ整備、教育分野などの現場にも触れることができ、国づくりの根幹に関わるダイナミックな仕事だと思います。

 

今では自分の街と言える場所

―あなたにとって東京はどんな街ですか?

最初に来て感じたことは周囲の人達がみんな自分より頭が良く見えると同時に、まわりに無関心でどこか冷たい印象がありました。

でも時間が経つに連れて色んな背景や価値観を持った人達が集まっている事を知り、自分の小ささや弱さも痛感しました。そうしたものを受け入れていって次第に愛着が湧いてきました。

上京時に初めて降り立った時と英国に旅立つ前に見た光景は全く違うものに見えました。その分、東京で成長が出来たということでしょうか。今では愛着も出て、胸を張って自分の街と言えます。

 

ソマリアの紛争解決に携わりたい

―今後の目標について

現在はラオスの産業振興を主担当とし、専門家の派遣を通じた経営層や起業家のビジネススキル向上や製品開発効率改善など、人材育成も含めたプロジェクトに関わっています。

まだ2年目なので色々な事を習得している最中ですが、常に途上国の人達の目線に立った仕事を続けていく事に専念したいです。

そしてこの仕事を目指す契機となったソマリアの紛争解決に携わり、現地の1人でも多くの人達に笑顔を届けることが目標です。

またいつかは故郷の沖縄に戻り、沖縄と海外をつなぐビジネスに関われたらと思っています。

 

自分の殻を破る勇気を持って

―最後に沖縄の若者にメッセージをお願いします

夢の達成の為には必ずそれを支えるだけの努力や準備が必要だと思っています。僕も英国在学中には周囲の同期達が社会に出て働く中、漠然とした不安もありました。

でもこの時期にしかできない事に全力投球を心がけ、次の扉を開くことができました。

大事なのは自分の居心地の良い場所からいかに次の一歩を踏み出せるか。自分の殻を破る勇気が大切だと思います。

色んな国の人達や異文化と出会い、知れば知るほど世界観は広がりますし、行動次第で活躍できる場所は無限大に広がります。どうか自分の可能性を信じて一歩踏み出してください。

 

国吉大将さん

国吉大将(くによし・たいしょう)

1992年西原町生まれ。宜野湾ポニーズを経て興南高校野球部では、甲子園春夏連覇を達成。早稲田大学社会科学部卒業後、英国ウォーリック大学大学院で修士を取得。18年4月に独立行政法人国際協力機構に入構。現在は産業開発・公共政策部民間セクターグループ第一チームの職員として、主にラオスやカンボジアなどで、中小企業振興や貿易・投資促進をおこなう。甲子園に出場した双子の弟・大陸は現在、都内で公認会計士として活躍。

 

平良
国吉さん、お話ありがとうございました!

 

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